北島仏壇

漆芸の技法の一つである蒔絵は、およそ1,500年も前から伝わる日本古来の伝統技法です。
天然樹液の「漆」を接着剤にして金粉を「蒔き」ながら絵柄を描くことから、蒔絵と呼ばれます。
金仏壇に「平蒔絵」「研ぎ出し蒔絵」「高蒔絵」をふんだんにあしらう、全国的にも例をみない
稀少で贅沢な技法は、漆芸王国石川県の仏壇産地特有のものです。


*「ご注文製作」のお仏壇の場合、お客様のご予算とご要望により、宗教・宗派等に合ったオリジナルの絵柄を蒔絵師と綿密に打ち合わせの上、大柱、戸板裏、法板、引戸等二十数カ所(最大)の部分に各絵柄の蒔絵を仕上げていきます。

漆の塗られた部材板に飛天の下絵を漆でなぞり写し込み、乾き切らない瞬間に、金粉を蒔いて「置き目」を作ります。ここから「蒔絵」の幾重もの丹念精緻な作業が始まります。
飛天「高蒔絵」の完成(下壇板)
大柱に十六羅漢を描く蒔絵師尾山氏(工房にて)

下絵を漆でなぞり、その面を部材に写し込むところ。(下絵付け作業)


美川仏壇の「蒔絵」について

【研出蒔絵】(とぎだしまきえ)
絵の背景の雲、霞、山、川などは、「研出蒔絵」の技法で描きます。漆地の上に漆で文様を描き、その漆が乾ききらないうちに金の鑢粉(やすりこな)を蒔いて乾かします。その上に漆を薄く塗りかけて乾いたら、その上を木炭で平らに研いで、蒔絵層を写し出し、さらに磨いて光沢を出します。
【高蒔絵】(たかまきえ)
さらに、人物や、岩、樹木などは地盛りして高く盛り上げた「高蒔絵」の技法で描きます。
地盛りには漆で盛り上げる方法、その盛り上げた漆に木炭の粉末を蒔きつけて、粉末を漆に吸い込ませる方法、さらにいっそう高く盛り上げる方法として「錆上蒔絵(さびあげまきえ)」の技法があります。
【錆上蒔絵】(さびあげまきえ)
錆上げとは最初に漆と砥の粉を練り合わせ、適量の水を加えて作る錆で地盛りする技法です。錆の調合には先人から受け継いだ秘伝秘訣のものがあります。

このような「研出蒔絵」「高蒔絵」「錆上蒔絵」を仏壇本体の多くの部分(大柱、戸板裏、法板、引戸)にあしらう製法は、全国的にみても漆芸の盛んな石川県ならではの特徴です。

七色に輝く眩い青貝の「研出蒔絵」の中に「錆」で地盛りされた牡丹の花紋様(大柱)

「錆」で地盛りした後、弁柄漆を塗り、炭研ぎで磨き、艶を出し、さらに塗りを繰り返し、半乾き状態の瞬間に、金粉を蒔きます。その上から摺り漆を塗り、さらに磨いて仕上げていきます。
「錆上げ」制作途中の昇り流

漆と砥の粉を練り合わせた独特の「錆」で
地盛りされた龍の顔部分(大柱)
「錆」で地盛りされた麒麟の顔部分(大柱)






得度式(おかみそりの儀式)が描かれた
「錆上げ高蒔絵」(戸板内側)
十六人羅漢の一人、迦諾迦伐蹉(カナカバトサ)が描かれた「錆上げ高蒔絵」(大柱)

観世音菩薩が描かれた「錆上げ高蒔絵」
(仏壇内側の法板)
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十六人羅漢の一人、注荼半托迦(チュウダハンダカ)が描かれた「錆上げ高蒔絵」(大柱)

戸板内側:観世音菩薩の「錆上げ」工程の完成

戸板内側:勢至菩薩の「錆上げ」に「弁柄漆」を一筆一筆丹念に塗り込んでいきます。




親鸞聖人御一代記『御得度』
 平安末期、四歳で父、八歳で母を亡くした松若丸(親鸞聖人の幼名)は、人の命の無常を感じた。人は死んだのちどうなるのか?後生はあるのか無いのか?… 深刻な想いを抱いた九歳の松若丸は一日も早く出家しようと養和元年三月十五日、伯父の藤原範綱に付き添われ、山桜の咲き乱れる京都・東山 天台宗青蓮院を訪れた。
天台宗に出家せんとする者は、在家にて九年間学問し、学行試験に合格し、官に申し出て許可を受けた者がようやく出家を許されることとなる。その条件を満たさない松若丸だったが、この寺院の座主慈鎮和尚は松若丸の強い想いを感じとり、必ず将来、仏法興隆すべき器であると見抜かれ、例外的に出家の許可を官にいただくために中務省に御使いをたてられた。辺りが薄暗くなる頃、御使いの日野源十郎は出家の許可をいただき帰った。慈鎮和尚は「今日は日も暮れたため、明日出家の儀(得度式)を行う」と仰せられた。少しの間考え込んでいた松若丸は、やがて傍らの硯と筆を取って、歌を慈鎮和尚に示された。
 『 明日ありと 思う心の あだ桜
     夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは 』

(今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。人の命は、桜の花よりもはかなきものと聞いております。明日といわず、どうか今日、得度していただけないでしょうか。)
 感嘆した慈鎮和尚は、その夜のうちに出家の儀(得度)を行われた。かくて親鸞聖人は天台宗の僧侶となられたのである。
※得度式…かみそりで剃髪を行う儀式。(おかみそりの儀式)



戸裏:錆上げ高蒔絵 両縁:金ムロ研ぎ出し
親鸞聖人御一代記『聖徳太子霊告』
 聖人十九歳の建久二年九月十三日から十五日まで磯長(しなが)の聖徳太子の御廟へ御参籠になった。この御廟の境内には空を覆い隠すような大きな楠木がある。
その昔、弘法大師がこの御廟に三十七日間御参籠になられ聖徳太子が石の唐戸の中から助言なされ、弘法大師へ秘密の法を授けられたのである。かような霊廟であるため、聖人も三日間御通夜なされ称讃浄土経をお読みになった。その十五日の暁に聖徳太子御廟内より自ら石の扉を開き、光明きらめき辺りを照らし金赤の相を現し告げて曰く。
    我三尊化塵抄界   日域大乗相応地
    諦聴々々我教令   汝命根応十余歳
    命終速入清浄土   善信々々真菩薩
聖徳太子よりこの霊告をお受けになられた聖人は深く秘して口外はなされず、その告文の意味をお考えになられた。我三尊化塵抄界とは、極楽浄土の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が衆生済度のために声を便りに有縁の地へ立ち出でるという意。日域大乗相応地とは、いずれの国に出てみても法は縁がなければ弘まらぬ、この日本は弥陀の本願に相応して弘めやすい。この地に生まれし衆生は極楽浄土へは殊に縁が深いぞという意。塵抄の世界のその中でも、この日本は弘願他力の旗揚げが成し易いとのお知らせである。
諦聴々々我教令とは、聖徳太子が聖人へ善いことを聞かすので、しっかり耳をすまして聞かれよという意。汝命根応十余歳とは、お前の命はもうあと十年であるという意。命終速入清浄土とは、これから十年して命が終わったら清浄仏国へ生まれるのであるという意。善信々々真菩薩とは、御身は凡夫ではない。実は仏でましますぞというお告げなのである。聖人は余命十年とあるからには、あと十年の命のうちに菩提の夜明けに向かわねばならぬと再び大乗院へお帰りなされてからの御煩悶は火がつくようであった。



親鸞聖人御一代記『御寿像讃名』
戸裏:錆上げ高蒔絵
両縁:金ムロ研ぎ出し
 元久二年三月中旬、浄土の教えの師匠である法然上人(源空上人)より、親鸞聖人は他力往生の法門においては、法然上人の三百八十余名の弟子たちの中でも並びなき名僧と認められたのである。法然上人は聖人をよび寄せて、選擇本願念仏集を授け、写し取るようにと命じた。聖人は数多き御弟子の中において、ただ一人に授与されたことを身に余ると歓喜された。そして、四月中旬、選擇本願念仏集の付属として法然上人の御寿像を写すことを許され、絵描きに命じて法然上人のお姿を描かせて七月二十九日に完成した。御寿像の絵をご覧になられた法然上人は師資血脈相承の証拠のために、この真影に自筆にて
   南無阿弥陀仏
   若我成仏
   十方衆生称我名号
   下至十聲若不生者不取正學 
   彼仏今現在世成仏
   当知本誓重願不虚
   衆生称念必得往生
と、五十四字の讃銘の文を書いていただいた。



川越の御名号が描かれた「錆上げ高蒔絵」
(戸板内側面)赤枠部分クリックで拡大表示
親鸞聖人御一代記『川越の御名号』
 浄土の教えに対する弾圧により、三十五歳で越後に流罪となった親鸞聖人は越後の各地で弟子たちと布教活動をしていた。頃は五月中旬、流れ流れて米山のふもと柿崎村に着いた。五月雨が強く降っていた。日が暮れて困り果てた親鸞聖人は扇屋を営む小畠左衛門と申す者の軒端に立たれ、「なにとぞ一夜の宿を」と懇願なされたが断られてしまった。しかし、「軒下ならば許す」と言われ、師弟共々、雨をしのぎ古いムシロに座って念仏を唱えていた。その称名の声の尊さに気づいた主人は、涙を流しながら飛び出してきて、家の中へと招き入れられた。親鸞聖人は深くお喜びになられて、夜半過ぎまで彌陀の本願をお説きになると、主人夫婦は夢から覚めたかのように念仏する身となった。翌朝早く、親鸞聖人は扇の端に
 『 柿崎に しぶしぶ宿を 取りけるに
    主の心 熟柿(じゅくし)とぞなる 』
と記し、その扇を家に残して出発された。目覚めた夫婦はこれを見て、大変名残惜しく急いで後を追った。しかし、親鸞聖人一行は川を越えて向こう岸におられたので、老いたる夫婦は手に手を取って川を渡り、せめては御形見をと望まれた。親鸞聖人はすぐに筆を取られ六字の名号(南無阿彌陀佛)を書いてお渡しになった。これが世に名高い「川越の名号」と言い伝えられている。


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親鸞聖人御一代記
『枕石寺
ちんせきじ(日野左衛門済度)』
戸裏:錆上げ高蒔絵 両縁:金ムロ研ぎ出し
 建保五年の冬、聖人が関東御経回の際、常陸国久慈郡大門の郷にさしかかった。行く先はまだ遠く暮れ果てていた。さらには西風強く雪が激しく降っていた。師弟ともに足の歩みはしどろもどろである。ふと見れば向かいに構えの大きな家が見えるので、聖人は西仏房に一夜の宿を頼んでくれよと仰せになった。この家の主こそ郷士、日野左衛門頼秋で近江日野の出であった。彼は「坊主などとは聞くも汚らわしい、宿を貸すことはおろか姿を見るのもいやじゃ、さあ出て行け」と言った。西仏房は返す言葉もなく、すごすごと門外へ出て聖人にそう伝えた。「それは御苦労であった、しかし、そのような邪険な者が本願の正客じゃ。さように聞けば、いよいよここは立ち去れぬぞ」と聖人は自ら頼みに参ろうと門に入られたのだった。「庭の隅でも構いませぬ」と言葉を尽くしてお頼みなさると、日野左衛門はまなじりを逆立て、「また来たか乞食坊主」二度と足を踏み入れないように、あろうことか箒を持って打ち叩いたのであった。「今宵一夜はこの雪の中で辛抱しようぞ」と称名もろとも、雪かき分けて打ち伏したまえば、性信房は一つの石を探し、それを御枕になされ、お弟子両人はあじろ笠をぬいで頭の辺りを囲われた。
 夜半も過ぎた頃。すやすや寝ていた日野左衛門は、ガバッと起き上がり妻を呼び起こし、いま、夢の中に日頃信ずる帝釈天が現れ「汝が門前に生身の阿弥陀如来がお休みじゃ、早く我が家へ迎い入れよ」とお告げなられたぞと言えば、妻も「私もただいまそのお告げを受けた」と言った。これは不思議と戸を開けて見ると、門外辺り一面光明が輝いていた。それには邪険な日野左衛門もこれには驚き、門外に出てみれば、師弟三人とも雪に埋もれながら念仏して御座る。そして、あわてて申し上げた。「かかる高僧知識とは露知らず、宵のうちから悪口雑言、なんと無礼な扱いを致したことか、いざ、我が家へお入りくださいませ」と丁寧に聖人一行をお迎えした。それから日野左衛門の宅にお入りになり、親子三人に阿弥陀如来の第十八願のいわれをねんごろにお説きになられた。さすが、日野左衛門、悪にも強ければ善にも強いとか、ここに宿善開発してわが聖人のお弟子となり法名、道圓をいただいた。道圓のちに寺を建立し、箒でお打ちした時に折れた、阿弥陀如来を御本尊としたのが、今の二十四輩地の枕石寺である。この日野左衛門の嫡男もお弟子となったが、それが入西房唯圓である。



木地に錆付け後、何度も下地塗りを重ね、中塗り後、炭研ぎされた状態
(進捗率20%)
梨地研ぎ出しを施された状態
人物部分を漆で盛り上げて金粉を蒔いた状態
(進捗率90%)
大柱の絵を弁柄漆で地盛りしているところ

大柱の上下端の部分には、金具形の高蒔絵が施してあります。


仏教の正法を護持する十六人の羅漢(らかん)
(釈迦の正しい教えを大切に守り保つ羅漢たち)
羅漢(阿羅漢)とは、修行や学問を重ね、仏弟子として究極の悟り阿羅漢果(あらかんか)を得た聖者をいうが、特にに十六羅漢という場合には仏陀に仏の死後もこの世に留まって、正法を護持し衆生を済度することを命じられた十六名の大阿羅漢を指す。この十六尊の名称と、住むとされる地は『大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記』によれば以下の通りです。

1.
賓度羅跋羅堕闍(ひんとらばらだじゃ)
「西瞿陀尼洲」
2.
迦哩迦(かりか)
「僧迦荼洲」
3.
迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだじゃ)
「東勝身洲」
4.
那伽犀那(なかさいな)
「半度波山」
5.
蘇頻阿(そびんだ)
「北倶盧洲」
6.
阿氏多(あした)
「鷲峯山中」
7.
伐那婆斯(ばなばし)
「可住山中」
8.
羅怙羅(らふら)
「畢利颶瞿洲」
9.
迦諾迦伐蹉(かなかばとさ)
「迦濕彌羅国」
10.
注荼半托迦(ちゅうだはんだか)
「持軸山中」
11.
戍博迦(じゅはか)
「香酔山中」
12.
半托迦(はんだか)
「三十三天」
13.
因掲陀(いんかだ)
「廣脇山中」
14.
諾矩羅(なくら)
「南贍部洲」
15.
跋陀羅(ばだら)
「耽没羅洲」
16.
伐闍羅弗多羅(ばじゃらほたら)
「鉢刺拏洲」


阿弥陀如来二十五菩薩来迎図
 来迎図は、臨終の際に阿弥陀如来など聖衆〈しょうじゅ〉が眼前に現れ、極楽浄土に迎えるという『観無量寿経〈かんむりょうじゅきょう〉』に説く情景を描くもので、浄土信仰の興隆とともに制作され、平安時代に正面坐像系・斜め坐像系が、鎌倉時代に能動的な如来の姿として立像系来迎図が登場、普及してきた。来迎する二十五人の菩薩が湧雲(ゆううん)に乗り、立像の阿弥陀如来を囲んでいる様が描かれている。阿弥陀如来にすがる当時の人々の様子がしのばれる。
 末法の世のはじまりとされた平安時代につくられた即成院の本尊である阿弥陀如来と二十五菩薩は、功徳が大きくなることを願った浄土信仰をよくあらわしていると言われているが、阿弥陀如来に救っていただいて浄土にいくことが、当時の人々の切なる願いでした。臨終に際して往生者のもとへ阿弥陀如来は二十五菩薩とともに迎えに来て、極楽浄土に導いてくれます。蓮台(れんだい)を捧げた観音菩薩と、合掌する勢至(せいし)菩薩を先頭にし、光明(こうみょう)を放って、極楽往生を喜び奏楽(そうがく)する多くの菩薩を従え、来迎する阿弥陀如来の一行を描いている。
 阿弥陀来迎の時には、光(弥陀からの金色の光)・香(薫香)・妙音(菩薩の奏でる天上の音楽)の三つの奇跡が現れると信じられていた。
 阿弥陀如来とともに来迎する二十五菩薩とは観(世)音、勢至、薬王、薬上、普賢、法自在王、獅子吼、陀羅尼、虚空蔵、徳蔵、宝蔵、金光蔵、金剛蔵、光明王、山海慧、華厳王、衆宝王、月光王、日照王、三昧王、定自在王、大自在王、白象王、大威徳王、無辺身の各菩薩である。
梨地を蒔き終えた状態の戸板4枚セット
(進捗率30%)


左)4枚引戸の中の左側に納められている五重箪笥絵柄は「王舎城の悲劇」に登場の韋提希夫人(イダイケブニン)(150代以上)

大柱には四天王の蒔絵
日蓮上人御一代記絵図(4枚戸板内側)

200代の4枚引戸蒔絵

200代の4枚引戸蒔絵
勢至菩薩
観世音菩薩

花鳥をモチーフにした4枚引戸蒔絵

200代の障子戸の下腰の板6枚セット蒔絵



美川仏壇 製造販売元・金仏壇・注文仏壇・仏壇洗濯修理修繕・すす洗い
北島仏壇店

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